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「ブラタモリ」東海道五十七次の旅 – 第一夜 京都・三条大橋から伏見へ

「ブラタモリ」東海道五十七次の旅 – 第一夜 京都・三条大橋から伏見へ

2024年11月2日放送のNHK総合『ブラタモリ』では、東海道五十七次の旅が始まります。今回の第一夜では、京都の三条大橋から伏見へと進む旅が描かれ、徳川の思惑や江戸時代の街道に秘められた歴史的背景が明かされます。タモリさんが登場し、広島局の佐藤茉那アナウンサーと共に、古き良き日本の東海道の魅力を探る旅に出ます。

三条大橋からスタート!リニューアルされた橋とその歴史

番組は、三条大橋からスタートします。この橋は、今年1月に50年ぶりに改修を終えたばかり。古い部分も活かされ、擬宝珠(ぎぼし)は1590年から使われているものだと紹介されました。橋を渡った先に残る当時の石柱は、江戸時代の絵画に描かれたものとも照らし合わせられ、歴史を感じることができます。

三条大橋は、江戸時代における東海道五十三次のスタート地点で、そこから53の宿場町を経て最終的に大阪へ向かうルートです。しかし、実は「東海道五十三次」とは別に、もうひとつ「東海道五十七次」という別ルートが存在したことが明らかにされます。このルートの存在には、徳川幕府の巧妙な意図が隠されていました。

東海道五十七次の分岐点に迫る!

タモリさんと佐藤アナは、五十三次ルートと五十七次ルートの分岐点に到着。江戸時代、ここは三差路となっており、道標には「みきハ京ミち」「ひだり ふしミ」と書かれ、分岐点であったことを示していました。分岐点の選択には、徳川幕府の思惑が絡んでいたと言われています。

江戸時代の街道土産「大津絵」

その後、タモリさんたちは江戸時代の街道土産の代表として「大津絵」を紹介。大津絵は、当時の人々に人気だったお土産で、魔除けやお守りとして親しまれました。現代にも伝統を守りながら大津絵を描く職人が存在し、タモリさんも大津絵に挑戦!出来上がった作品も番組で紹介されました。

徳川幕府の思惑とは?

五十七次のルートがなぜ京都を通らず、大津を経由する形になったのか。その背景には、徳川幕府の政治的な思惑があったといいます。京都には天皇がいるため、大名たちが参勤交代で京都に足を運ぶことを避けるため、京都を避けるルートが選ばれたのです。これによって、徳川家と大名たちの接触を最小限に抑えることができたというわけです。

京都・伏見の宿場町の歴史

次に、タモリさんたちは京都・伏見に足を運びました。伏見は江戸時代において、宿場町として大いに栄えた場所です。特に、伏見にある京橋は、当時、荷上場として多くの商人が行き交った場所でした。伏見の宿場町は、豊臣秀吉の伏見城の存在によって繁栄し、その後、徳川家康が引き継ぎました。伏見宿の人口は2万人を超え、五十七次の中でも最大級の宿場町となったことがわかります。

伏見に残る徳川家康の痕跡

タモリさんたちは、徳川家康が伏見に長く滞在していた証拠を探し、御香宮神社を訪れました。神社の門には徳川の紋章があり、家康の息子である頼房が寄進したことが示されています。この訪問を通じて、徳川家の伏見に対する深い関わりが明らかになります。

東海道グルメ:練り羊羹

最後に紹介されたのは、練り羊羹。東海道五十七次の宿場町で販売されるようになり、旅人たちが土産として買い求め、全国に広がったという逸話が紹介されました。練り羊羹は、日持ちが良いため、旅の途中でも手軽に持ち運べ、長い旅路を支える重要なお土産だったのです。

まとめ

『ブラタモリ』の「東海道五十七次の旅 第一夜」は、京都・三条大橋から伏見へ向かう道中で、徳川幕府の思惑や江戸時代の文化が深く掘り下げられました。五十三次と五十七次の違いや、当時の宿場町の重要性、さらには東海道グルメ大津絵の歴史にまで触れることができ、視聴者にとって大変興味深い内容でした。次回の放送も楽しみにしたいですね!